LOGIN範経とローズは声のした方へ顔を向けた。そこには、ひょろっと背の高い女が一人、いつの間にか立っていた。 胸元の大きく開いたブラウスは今にも張り裂けんばかりの豊かな胸を押し上げ、短いスカートの裾は、かろうじて大きな尻を隠していた。愁いを帯びたその顔は、若くないはずでありながら、なおどこか幼いあどけなさを残していた。つぶらな瞳が、妙に印象的だった。その頭上には不自然なほど大きな兎の耳が、まるで哀しみを嘲笑うかのように載っていた。「少し、お話をさせていただけないでしょうか」 女は控えめながら、拒否を許さぬ響きを帯びた声で言った。「何の用だ?」 ローズは、面倒くさげに答えた。「わたくし、リリーと申します。昼間、蛇の目池で、エロリック様に助けていただいた子供――ぺぺとネネの母でございます。本日は、そのお礼を申し上げたく参りました」「なんだ、そんなことか」 ローズは肩の力を抜いた。「本当に、ありがとうございました」 リリーは深く頭を下げた。その仕草は、どこか芝居じみているようだが、しかし真摯でもあった。「別に気にしなくてもいい」 範経は、やや戸惑いながら答えた。「いいえ、そういうわけには参りません」 そう言うと、リリーは空いている椅子にためらいなく腰を下ろし、手にしていたハンドバッグを静かにテーブルへ置いた。その一連の動作は、まるで日常の所作のように慣れきったものだった。 ローズはそれを見て、得心したように小さく頷いた。 範経の戸惑いを察したローズは身を寄せ、小声で囁いた。「この女は娼婦だ」「え?」「お代はいただきません」 リリーは、範経の驚きをよそに、穏やかだが断固とした言葉を継いだ。「そんなつもりで助けたわけではない」 範経は思わず言い返した。「承知しております。ですが、それでもお返しがしたいのです」「だが……」 言いかけて、範経は口をつぐんだ。リリーの目に、かすかな翳りが差したのを見たからだ。「エロリック、嫌なのか?」 ローズが横から問う。「そうではないが……こういうのは初めてなんだ」「まあ、そうだろうな」 ローズは軽く鼻で笑った。「若いし、女には不自由していなかった顔だ。金で買うなんて経験はなさそうだな」「わたくしでは、ご不満でしょうか」 リリーの声には、わずかな震えがあった。「そういうことではない」
来店の折、席へ案内した給仕が、やがてまた静かに顔を現した。「お食事は、お口に合いましたでしょうか」 その声には、どこか慎ましやかな、控えめな気遣いが滲んでいた。「悪くない」 範経が素っ気なく答えると、給仕はほっとしたように、ほのかに微笑んだ。頭の上の不釣り合いな大きな耳を、わずかに震わせながら。彼は手際よく、食後の皿を一枚ずつ重ねていった。「お飲み物をお持ちいたしましょうか」「ああ、バーボンをもう一杯。エロリックはどうする?」「コーヒーをもらえる?」「かしこまりました」 給仕は一礼し、なおもその場に留まって言葉を添えた。「デザートはいかがなさいますか」「アイスクリームはある?」と範経。「ええ、もちろんでございます」 ウエイターは静かに一礼し、立ち去った。 範経はローズと向かい合い、コーヒーを静かにすすった。この異世界へ来て以来、初めて心の奥底がほどけるような、穏やかな気分だった。 彼は普段ほとんど口にしないアイスクリームをスプーンですくい取り、ゆっくりと口へ運んだ。濃厚な甘みが舌の上で溶けゆくのを、はっきりと意識した。これまで味わったことのない不思議な満足感が胸の奥底に、静かに広がっていった。 店内は混み合っていた。酒をあおりながら陽気に騒ぐ冒険者らしい一団。家族連れで静かに食事を楽しむ者たち。店の外の通りからは楽器を奏で歌う声が流れ込み、ざわめきは絶え間なく続いていた。 そんな喧騒の只中にあって範経はむしろ、ゆったりとした気分に深く浸っていた。 先ほどまでこの世界特有の原色の強いきらめき――目に刺さるように感じられたそれが、今ではかえって心地よい刺激へと変わりつつあった。まるで毒々しい色彩が、いつしか優しい光に溶けていくかのように。 ローズはくつろいだ様子で、バーボンを静かにあおっていた。 範経はさらにコーヒーを口へと運びながら、ふとこれまでの自分の生活を思い出した。家では姉妹たちに過保護なほど大切に扱われ、学校では由紀と祥子を除けば、誰にもまともに相手にされない。どこか変人扱いされ、息苦しい日々のことを。 ――いっそ、このままこの世界にいても、いいのではないか。 そんな考えが、ふと頭をよぎる。ここでは誰に気を遣うこともない。ただ、自分のままでいられる気がする。 だが同時に、ここは自分の属する世界ではないという事実
現れたウエイトレスは、前菜を運んできたシャム猫のような女だった。彼女は足音一つ立てず料理を運び、卓上にそれらを静かに並べ始めた。「本当に、この子があなたの相棒なの?」 女はそう言いながら、範経の顔を、まるで店先の野菜を品定めするように、じろじろと眺めた。視線は外さぬまま、ローズに囁きつつ、肉やパンやバターの皿を、無遠慮に置いてゆく。「そうだ」 ローズは短く答えた。「そんなに腕が立つの?」「無論だ。昼間、大蛇を仕留めた」「……そう」 女はわずかに眉を動かした。「誘拐してきたと勘違いされないよう、気をつけなさいよ」 シャム猫の女は、静かに立ち去った。 ローズがナイフとフォークを手に取ると、範経もそれに倣った。 食事は、驚くほど美味であった。 範経はふと、この奇妙な異世界へ来る直前のことを思い出していた。クリスマスパーティーの光景。姉妹やガールフレンドたちに囲まれていた、あの賑やかな時間――それが、今では遥か遠い昔のように思われる。この異世界にいることに気づいてから、まだ一日も経っていない。 もう二度と現実へ戻れないのではないか。そんな考えが胸をよぎり、奥底がじわりと重くなった。不意に、ナイフとフォークを持つ手がかすかに震えた。 その様子に気づいたローズが、声をかけた。「どうした?」 範経は小さく首を振った。「いや、なんでもない。久しぶりの食事だから、少し嬉しくて」「そうか。それはよかった」 ローズは軽くうなずいた。「ああ……こんなに旨いステーキを食べるのは、初めてだよ」 言いながらも、その声にはどこか現実から浮いたような、淡い響きが残っていた。 だが、これは仮想世界のはずだった。それにもかかわらず、なぜこれほどまでに味わいが鮮明なのか――範経は、ふと不思議に思った。 焼けた肉の香り、歯ごたえ、舌触り、そして口中に広がる脂ののった肉汁の旨味。そのどれもが、本来ならば偽物にすぎないはずである。にもかかわらず、それらは疑いようもなく現実の感覚として、彼の内に立ち現れていた。 ……誰が、俺の感覚を操っているのか。 範経は心の中で呟いた。レイはこの異世界のシステムをハッキング中だと言っていた。だとしたら、範経の五感は制御システムが作り出し、彼に感じさせているはずである。 そう考えながらも、範経は肉を頬張り、続けてパンにかじ
銭湯を出た範経とローズは、連れ立ってけばけばしい「夢見る街」の盛り場へ足を踏み入れた。「今日は大蛇を狩って、報酬もらって、借金は完済だ。そのうえエロリックの女にされちまって、最高の気分だぜ!」 ローズは快活に笑った。「恥ずかしいよ」 範経は人目を避けるように視線を巡らせた。「何照れてんだ、主様!」 ローズは腹の底から笑った。「あとは晩飯だ! 腹いっぱい肉を喰らおうぜ。あたしは気の利いた店を知ってるんだ」 その顔には、隠しようもない満足があった。 それから二人は、しばらく大通りを下った。この異世界「夢見る街」には、様式も由来も定かでない建物が雑然と並んでいる。しかし、それらは互いに無関係でありながら、原色の光に浸されることで、奇妙な調和を保っていた。殊に夜ともなれば、その光景はいよいよ現実のものとは思われなかった。 範経の胸には不安が渦を巻き、またしても逃げ出したい衝動に襲われた。が、ローズの存在を思い返し、辛うじてそれを押しとどめる。彼は静かに彼女の横顔を見た。「ここだ」 ローズの指す先には、気取った書体で「ビストロ・モンストレ」と記した看板が掛かっていた。バルコニーを張り出したその構えは、ルネサンス期のヨーロッパを気取ったものらしいが、どこか作り物めいている。 店内の照明は一様ではなく、さまざまな色の光を放っていた。それらはネオンのように明滅し、互いに呼応しあって、まるで脈打つ生き物のようであった。範経は、それを見た瞬間、視界の奥がかすかに揺らぐのを覚えた。 軽い眩暈を押し殺しながら、彼はローズの後に従って店の中へ入った。 開け放たれた扉の内側には、すでにウエイターが待ち受けていた。男は二人の姿を見るや、慇懃に頭を垂れた。「二人だ」 ローズが簡潔に言う。「かしこまりました」 ウエイターは無駄のない動作で応じ、二人を窓際の席へと案内した。そこからは通りの様子がよく見えた。このあたりは繁華の中心らしく、窓外には、人とも獣とも判じがたい異形のものどもが、騒がしく行き交っている。「お飲み物は、いかがなさいますか」「あたしはいつものだ」「バーボンのロックでございますね。こちらのお客様には、よいワインもございますが」「エロリックは未成年だ。見ればわかるだろう」「これは失礼を」 ウエイターは、わずかに眉を下げて詫び
湯気の立ちこめる浴場に、かすかな水音が反響していた。白く霞む視界の中で、互いの輪郭だけがやけにくっきりと浮かび上がる。「じろじろ見るなよ。裸が珍しいのか?」 ローズは腕を組み、わずかに視線を逸らしながら言った。その声には、強がりと、どこか落ち着かない響きが混じっている。「ローズ、女性だったんだな」 思わず漏れた言葉に、彼女はすぐさま食ってかかる。「あたしは女だよ! 外見だって言葉だって女だろ!」 湯気の中で頬がわずかに赤らむのが見えた。怒っているはずなのに、どこか照れているようにも見える。「いや、なんていうか、あまり意識していなかった」 正直な返答に、ローズは肩をすくめた。「ひどいな。怒るぞ」 言葉ほどの迫力はない。むしろその距離の近さに戸惑っているようだった。 範経の腹部に目を落とし、少しの沈黙のあと、彼女はふっと息を吐いた。「ちょっと待て、そういうことなら許す。背中を流してやる」 湯桶を手に取りながら、どこか照れ隠しのように言う。「お前、さっきから立ちっぱなしだな」「仕方ないだろ」 軽口を交わしながらも、視線が合えばすぐに逸らしてしまう。「あたしなんかでか?」 ふと漏れた言葉には、不安が滲んでいた。「魅力的だ。健康美というか、野性的というか」 思ったままを口にすると、ローズは一瞬言葉を失ったように黙り込む。やがて、小さく鼻を鳴らした。「お前、変わってるな」 だが、その声はどこか嬉しそうだった。 範経の背中に湯おけの湯をざぶりとかけると、ローズが立ち上がった。「湯船につかろうぜ」 ローズは勝手知った様子で、人目を避ける岩陰の湯船へと範経を導いた。「ここでならいいぞ」 ぽつりとローズが言う。「いいって?」 問い返す声もまた、どこか慎重だった。「決まってるだろ、言わせるな」 視線が絡む。逃げ場のない沈黙の中で、互いの呼吸だけがやけに大きく聞こえた。 やがて、どちらともなく距離がさらに縮まる。「乳房は二つだけなのか」 範経が掌でローズの体を探った。「当たり前だろ、あっ」「腹部は毛が少ない」「お前、デリカシーがない奴だな」 言葉が少なくなった。その代わり、触れ合いながら、ぎこちなくも確かなやり取りが続いていく。 ローズの反応は素直だった。強がりな言葉とは裏腹に、触れられるたびに揺れる気配が伝
銭湯は街の目抜き通りにあり、いかにも古代ローマの公衆浴場の遺跡を思わせる、重苦しい威容をさらしていた。もっとも、その大理石はといえば黄色や桃色や水色といった、妙に軽薄なパステルの光沢を帯びている。いかにも得体の知れぬ気配を漂わせていた。 日が暮れてその建物は、さながら怪しげなネオンの飾り物のようにも見えた。 範経は巨大な柱の脇に穿たれた石の門をくぐり、内部へ足を踏み入れた。番台には、肌もあらわな、腕を四本持つ痩せた女が坐っている。範経とローズは百ビットの金を払った。「いつもの薬をくれ」 ローズはそう言い添えて、追加で小銭を差し出した。「どうぞ」 女は顔も上げず、ひょろりと長い腕を後ろへ伸ばし、戸棚から瓶を一本取り出して、無造作にローズへ渡した。その瓶の内には、どこか生気を帯びたような緑の蛍光を放つ液体が、静かに揺れていた。「何の薬だ、それは?」 範経は警戒を含んだ声で問うた。「鎮痛剤入りの栄養ドリンクだよ。元気が出るぞ」 ローズは軽く笑って「エロリック、お前も一本どうだ」と勧めた。 範経は得体の知れないものを見るような目つきで、黙って首を振った。その仕草には、言葉よりもなおはっきりとした拒絶があった。 ローズはそれを意にも介さず、瓶の口に指をかけ、軽やかな音を立ててコルクを抜いた。その瞬間、密やかに閉じ込められていたツンとした生臭い香りが、かすかに外へと漏れ出した。「これさえ飲めば、もう大丈夫だ」 言うが早いか、彼女はいかにも胡散臭い瓶の中身を、一息に呷った。「効くぜ!」 範経は、なおも疑わしげな眼つきでローズを見た。「一度、病院で診てもらった方がいいんじゃないか?」「もう治った。さあ、汗を流そうぜ」 二人はさらに奥へと歩を進め、やがて脱衣所と思しき一画へ足を踏み入れた。「混浴か?」 範経は声をひそめながらも、眼の奥にわずかな好奇をもって尋ねた。「そうだ。嫌なのか?」 ローズは、さも当然といった調子で答えた。その声音には、相手の戸惑いを愉しむような余裕さえ感じられた。「いや、うれしいが……」 範経はそう言いながら、どこか落ち着かぬ様子で辺りを見回した。広々とした脱衣所には、湯気の名残が淡く漂い、壁際には人影がまばらに揺れている。「この世界では、風呂はどこでも混浴なのか?」 異様な光景を前
範経は、レイに付き添われて家のドアを開けて玄関に入った。家の中は寝静まっていた。範経はそっと靴を脱いで框を上がった。 ドアのすりガラスからダイニングルームの明かりが漏れていることに気がついた。ドアをそっと開けると母親の寛子がテーブルの椅子に座っている。「範経、おかえりなさい」と寛子。「ただいま、お母さん」と範経。「お母さんが家にいるなんて珍しいね」「ここは私の家よ」と母親。「幸一を追い出したから、この家の名義は私なの」「そうだったね」と範経。「範経、そこに座りなさい」 寛子が立ち上がった。「お腹がすいてるでしょ。食べるものを用意するから」 普段は感情の起伏の激しい寛子が、
範経は下を向いてつぶやいた。「結局、何も変わらないのか」「お父様が変わったのです」とレイ。「ぼくが?」と範経。「はい」とレイ。「お父様は、今でもフォーシスターズ時代のことを恨んでおられますか?」「いや、全く」と範経。「変わっておられます」とレイ。「え?」と範経。「顔がくつろいで、眉間のしわが無くなっています」とレイ。「そうなのか……」と範経。「だが、ぼくはあれでよかったとして、他の人にどう謝罪すればいい?」「どうして謝罪が必要なのでしょうか?」とレイ。「ぼくは夢の中だと思い込んでいた空想の世界で、彼らに暴行を働いてしまった」と範経。「空想の世界での行為が問題になるで
【目次】 § 第1章 一線を越えた日 第1話 由紀 第2話 祥子 第3話 二人の彼女 第4話 音楽準備室§ 第2章 誕生日会 第5話 校庭のベンチ 第6話 玲子 第7話 招待 第8話 由紀の父親 第9話 転校の書類 第10話 拉致 第11話 誕生日会 第12話 祥子の家 第13話 欠席 第14話 美登里§ 第3章 引っ越し 第15話 商店街 第16話 圭と明 第17話 新しい家族 第18話 実母 第19話 叔母 第20話 一時帰
事を終えた範経は、右手で髪をつかんでレイの生首を吊り下げ、茫然と立ち尽くしていた。 範経は我に返った。 「レイ、もういいだろう? 現実に戻してくれ」 部屋に散らばったレイの体のパーツが消え、服を着たレイが現れた。 「はい、お父様」 レイは範経を抱きかかえた。__ 範経はラボの寝台で目を覚ました。レイが範経のヘッドセットや生体モニターのセンサーを外し、範経の背中を腕で支えて体を起こした。 美登里たち関係者が帰った後で、部屋はがらんとしていた。「お父様、何か食べるものをご用意します」とレイ。「ありがとう」と範経。「それよりも、ここの状況を説明してくれないか?」「どういう







